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富樫氏(とがしし)の争いと長享(ちょうきょう)の一揆(いっき)

加賀の守護(しゅご)[国の軍事や政治の仕事を行った]であった富樫教家(とがしのりいえ)は、1441年[嘉吉元]に将軍の足利義教(あしかがよしのり)を怒らせたことから、守護の身分をうばわれて、弟の泰高(やすたか)が守護になりました。ところが、将軍の足利義教が家臣に殺されてしまい、つぎに教家の子の成春(しげはる)が守護につきました。

守護の身分をめぐって教家と泰高の兄弟争いがはじまり、加賀の国を北と南に分けて、北の守護には成春がなり、南の守護には泰高がなりました。仲直りしたこともあったのですが、半分ずつであった守護が元にもどって、富樫政親(とがしまさちか)が加賀全体の守護についたときも争いは続いていました。

このような不安定な状態である加賀の国では、1488[長享2]年に、一向一揆(いっこういっき)[一向宗を信仰する人たちが団結した集まり]の人々が、政親の叔父(おじ)の泰高を同盟の中心にして、政親に対して反乱をおこしました。反乱の原因は、重い税によるものでした。

政親は高尾城(たこうじょう)[金沢市高尾]に立てこもりました。それに対して一向一揆側は、野々市の大乗寺(だいじょうじ)に陣を置いた泰高を中心にして高尾城を取り囲みました。合戦は6月5日に始まり、6日の額口(ぬかぐち)の激しい戦いで一向一揆側の勝利は決定的となり、政親は9日に自害しました。この高尾城をめぐる合戦を長享の一揆と呼びます。

その後、守護には富樫泰高とその子孫がつきますが、実際は一向一揆の力が強く、1,580年[天正8]までの約100年間は、一向一揆の人々が加賀国を運営しました。

現在の高尾城跡(金沢市)

高尾城跡からのぞむ野々市

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