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押野村(おしのむら)の後藤家(ごとうけ)

後藤家は、江戸時代に押野村(おしのむら)を治める仕事を行った家で、加賀藩では十村(とむら)と呼ばれていました。この十村は、ほかの藩での大庄屋(おおじょうや)にあたるものです。

後藤家の最初の人である後藤弥右衛門(ごとうやえもん)は、武士である富樫泰高(とがしやすたか)のひ孫にあたる富樫泰俊(とがしやすとし)の三男家俊(いえとし)のことで、押野村に住んで名前を変えたことが伝わっています。織田信長(おだのぶなが)と加賀の国を治めていた一向一揆(いっこういっき)[一向宗を信仰する人たちが団結した集まり]との争いが始まったとき、富樫氏は織田信長に味方したのですが、一向一揆に敗れてしまい、富樫氏が滅びてしまわないために、泰俊は家俊を逃がしたのでした。

弥右衛門は、一向一揆との戦いを続けて、1581年(天正9)には米300石(こく)[1石は約180リットル]分の領地[約20ヘクタール]をもちました。弥右衛門の子の藤右衛門(とうえもん)からは、農村を治める仕事を行うようになりました。

藤右衛門の子の太兵衛(たへえ)は、1671年(寛文11)に長坂(ながさか)用水を通して泉野台地[金沢市泉野・長坂]を開墾(かいこん)し、新しい村をつくりました。金沢市長坂の長坂野(ながさかの)神社には、太兵衛の功績(こうせき)をのちのちまで伝えるため、石碑(せきひ)がたてられています。

後藤家は、押野の高皇産霊(たかみむすび)神社の隣(となり)にありましたが、今は蔵だけが残っています。

後藤家の跡地(あとち)

金沢市の長坂野神社にたてられている後藤太兵衛の石碑

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