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石川県野々市市 
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新しい野々市町の誕生(たんじょう)

1953年[昭和28]に国は、町や村が責任をもって仕事ができるようになるため、小さな町や村を合併(がっぺい)して人口を8,000人以上にする「町村合併促進法(ちょうそんがっぺいそくしんほう)」という法律をつくりました。

このとき、現在の野々市市あたりには、押野(おしの)村[人口約3,000人]、野々市町[人口約4,000人]、富奥(とみおく)村[人口約2,000人]、郷(ごう)村[人口約1,600人]、安原(やすはら)村[人口約2,300人]、額(ぬか)村[人口約1,800人]の町や村がありました。

石川県は、野々市町、押野村、富奥村、額村、安原村が合併して1つになる案を発表しました。この案に反対する金沢市は、押野村、額村、安原村に対して、金沢市編入(へんにゅう)の運動を行い、額村と安原村は金沢市に編入することになりました。

このため、石川県はつぎに、野々市町、押野村、富奥村、郷村が合併する構想(こうそう)を発表しました。ところが、押野村では金沢市に編入したい、郷村では松任(まっとう)町と合併したい、という意見も多く、どちらの村も混乱して野々市町との合併はなかなか進みませんでした。

そこで、話し合いが進んでいる野々市町と富奥村が1955年[昭和30]4月1日に合併して、新しい野々市町が誕生することになりました。意見が対立していた郷村では、郷村を野々市町に編入する地域と松任町へ編入する地域の2つに分けることで混乱を解決して、1956年9月30日にそれぞれの町へ編入しました。

押野村では、金沢市への編入を賛成する集落(しゅうらく)が多く、1956年に金沢市に編入しました。この編入には、「編入後には押野、押越(おしこし)、野代(のしろ)、御経塚(おきょうづか)の野々市町編入を進める」という条件がありましたが、金沢市はこの条件を無視したことから村内の対立は深まり、押野の集落では、野々市町の学校に子どもを転校させる運動もおこりました。このため、押野の集落では住民投票を行い、野々市町編入賛成274、反対111という結果になりました。このようないきさつを経て1957年4月10日に、押野、押越、野代、御経塚の4集落の1,073人が野々市町に編入して、野々市町は人口8,000人を満たしました。

新しく野々市町になった集落

野々市町と富奥村の合併を祝うパレード(1955年)

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