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野々市じょんからまつりとは

ページ番号:0003543 印刷用ページを表示する 更新日:2018年12月25日更新 <外部リンク>

1. 野々市じょんからまつり

昭和57年(1982年)に毎年盆に行われていた「野々市じょんから踊り大会」と商工会主催で行われていた「野々市まつり」とを合わせて、第1回の「野々市じょんからまつり」を役場周辺で開催しました。

その後、平成2年(1990年)の第9回のじょんからまつりから、現在の野々市市文化会館フォルテ周辺で開催されることになりました。

2. 野々市じょんから

昭和42年(1967年)に市指定民俗文化財となった「野々市じょんから節」は、現在も盆踊り芸能として踊られています。この民謡の名称を含めた由来については、古くから諸説があり、室町時代にこのあたりで踊られていた「御贄踊り(おにえおどり)」に由来するという説、江戸時代に富樫氏の徳を讃えつつ、武士や町民、百姓などの区別なく盆に踊り明かしたという説、古浄瑠璃と都都逸系の真宗と関係した歓喜嘆、くどき節が加わったという説、長崎県平戸に伝わる国指定無形民俗文化財の豊年を願う念仏踊りの由来ともされた「自安和楽」(自ら安んじて和やか楽しむ)という意の転化したものであるという説、上様(じょうさま=蓮如)から教えられた説などがあります。

この野々市市以外でも下柏野じょんから節、森本じょんから節、はては津軽じょんから節まで全国に同じ名称の踊りが分布していることから、複雑な起因をもつものではないかと考えられています。

歌詞には江戸時代に人気があった芝居の「忠臣蔵」や「門出八島」、「和尚おとし」などから文句を取り歌われてきましたが、現在は「富樫略史音頭」を歌っています。踊りは、全国各地に伝わっている農作業の仕草、動作をモチーフとした振り付けとされています。

富樫略史音頭より

一 未熟(みじゅく)ながらも拍子(ひょうし)をとりて 唄(うた)いまするは富樫(とがし)の略史(りゃくし)

二 声(こえ)はもとより文句(もんく)も拙(まず)い 拙(まず)い処(ところ)を御用捨(ごようしゃ)あれば

三 踊(おど)りましょうぞ夜明(よあく)るまでも 今(いま)を去(さ)ること千年以前(せんねんいぜん)

四 時(とき)の帝(みかど)は一条天皇(いちじょうてんのう) 雪(ゆき)に埋(うも)れて開(ひら)けぬ越路(こしじ)

五 加賀(かが)の司(つかさ)に富樫(とがし)よ行(ゆ)けと 勅諚(ちょくじょう)かしこみ都(みやこ)を後(あと)

六 下(くだ)り来(きた)りて野々市町(ののいちまち)の 地理(ちり)を選(えら)びて館(やかた)を築(きず)

七 神社仏閣造営(じんじゃぶっかくぞうえい)いたし 民(たみ)を愛(あい)して仁政布(じんせいし)けば

八 名僧智識(めいそうちしき)は四方(よも)より集(つど)い 是等智識(これらちしき)に道(みち)をば聞(き)きて

九 下(しも)は和(やわ)らぎ稼(か)しょくを励(はげ)み 上(かみ)を敬(うやま)い富樫(とがし)を慕(した)

十 代々(よよ)の司(つかさ)に奏上(そうじょう)いたし 勅許(ちょっきょ)ありたる良官(りょうかん)なれば

十一 一(いち)の谷(たに)やら鵯越(ひよどりごえ)と 屋嶋海戦大功樹(やしまかいせんたいこうた)てゝ(て)

十二 兄(あに)を名誉(めいよ)の将軍職(しょうぐんしょく)に 授(たす)け上(あげ)たる義経公(よしつねこう)

十三 落(おち)て来(きた)りて安宅(あたか)の関所(せきしょ) 家来弁慶(けらいべんけい)(よ)み上(あ)げまする

十四 音(おと)に名高(なだか)き勧進帳(かんじんちょう)に 同情(どうじょう)いたして涙(なみだ)で落(おと)

十五 実(げ)にもすぐれし名将智主(めいしょうちしゅ)と 後(のち)の世(よ)までも歌舞音曲(かぶおんぎょく)

十六 残(のこ)る徳(とく)こそ白峰(しらね)と高(たか)く 麓流(ふもとなが)るゝ(る)手取(てどり)の水(みず)

十七 共(とも)に幾千代名(いくちよな)は芳(かん)ばしく 唄(うた)いまするは富樫(とがし)の略史(りゃくし)

3. 踊れ!じょんから・la(ラ)

野々市市には、「野々市じょんから節」があり、この踊りの伝承と保存をすべく毎年「野々市じょんからまつり」を開催していますが、踊り自体が初めての方や若い方が年齢・性別を問わず踊りの輪に入って楽しく踊っていけるようにという思いで「踊れ!じょんから・la」というサンバ調の踊りを平成9年から始めました。

じょんから踊りの画像1じょんから踊りの画像2

4. 富樫氏と野々市

平安時代後期から藤原利仁を祖とする富樫氏は、加賀国を代表とする在庁官人で、建武2年(1339年)の富樫高家以降加賀の守護職を歴任し、白山大道と北陸道の交差する交通の要所であった野々市に守護所を築きました。長享2年(1488年)の一向一揆以降も守護の地位にありましたが、天正8年(1580年)一揆方の拠点であった野々市は、柴田勝家の兵火に焼かれ、冨樫氏の時代は幕を下ろしました。

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