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中世の遺跡

ページ番号:0002595 印刷用ページを表示する 更新日:2018年12月25日更新 <外部リンク>

長池キタノハシ遺跡

室町時代から戦国時代を中心とした集落跡です。発掘調査の結果、東西と南北に伸びる道路状遺構があり、それに沿うように地割りの施された宅地が確認されました。宅地には掘立柱建物や井戸、室状遺構がセットとなっており、同じ宅地内では多いところで6回も作り変えが行なわれたことが確認されています。遺物は珠洲焼や越前焼、加賀焼などの陶器や瀬戸・美濃の陶磁器、中国産の青・白磁などが出土しており、当時の農村での生活様式や地方との商品流通もかいまみることができます。

二日市イシバチ遺跡

室町時代の掘立柱建物跡12棟、井戸跡4基、竪穴状遺構3基などが発見されました。発掘された範囲は遺跡推定地の一部分であり、JR北陸線をまたいで南側にも大きく広がっていることが確認されていますが、現状では道路築造に先立つ細長い調査区が主体であるため具体的な集落の広がりはまだわかっていません。

三日市A遺跡

148,000平方メートルもの広がりを持つ広大な遺跡であり、これまで(平成15年12月)発掘調査された結果では中世段階の遺構は北東側隅に集中する傾向が見られます。二重の堀で囲まれた屋敷地の存在や多くの竪穴状遺構、大きな井戸が13基も発見されており、かなり大きな居館があったものと考えられます。正確な場所はわかっていませんが、加賀の守護富樫政親の家臣高塚五郎兵衛の館跡がこの付近にあったと伝えられており、直接の関係がないにしてもある程度町屋が整備されていた可能性が考えられます。道路建設に伴う発掘調査であり、それらのつながりを検討していくことが今後の課題です。

押野館跡

富樫氏十五世泰明の末子家善が建てた居館であり、家善は後に「押野殿」と呼ばれました。幕末の記録によれば、東面88m、南面102m、西面158m、北面49m、東北面82mの規模であり、当時まだ土塁の一部が残っていたそうです。発掘調査の結果、館の周囲を巡っていた堀跡と見られる溝が確認され、館の位置が確定されました。出土した遺物は14~15世紀のもので、その様相より富樫政親が一向一揆で自刃した1488年とほぼ時を同じくして廃絶されたことがわかりました。

菅原キツネヤブ遺跡

道路建設に先立ち発掘調査が実施されました。深さ2.5mの井戸が1基確認されていますが、建物らしき遺構は確認されておらず詳しいことはわかっていません。周辺は富樫氏の時代に町屋が整備されていた地域からやや離れていますが、やはり人々の生活の場があったものと考えられます。

富樫館跡

1335年に加賀守護職を得た富樫高家が現在の野々市市本町2丁目から住吉町一帯に館を構えました。幕末の記録にはやはり当時の土塁の跡が残っていたことが記されており、それによると東西110~130m、南北100~110mの方形の区画を持っていたようです。平成6年度の発掘調査では館の周囲を巡っていたと思われる堀(内堀か?)が発見されており、幅上面で6~7m、底面で1m、深さ2.5mの規模を誇ります。溝底より当時の手鏡が1点出土しており、貴重な遺物となっています。館そのものの施設や建物あとは確認されていませんが、この他周辺では各種開発事業に先立ち大小の発掘調査が行なわれており、富樫館跡周辺の寺域や墓域、町屋整備の状況などが徐々に明らかになっています。

扇が丘遺跡群

大型掘立柱建物

野々市市扇が丘の高橋川左岸一帯に広がる遺跡で、縄文時代以来人々の暮らしが連綿と続いてきたことが発掘調査の結果からわかります。中世に始まった集落は、富樫氏が野々市に守護所を構える以前の11世紀末頃から始まったと見られ、13世紀初頭には扇が丘ハワイゴク遺跡で加賀地方でも最大級の8×6間の大型掘立柱建物が出現します。太刀の手入れに使用したとされる鳴滝産の砥石を多数所有していることや、土師皿の出土量の多さなどから、この居住者は頻繁に人をもてなす供宴を催し、太刀を持つことを許された有力在地領主であったと考えられます。富樫氏以前の、周辺の支配状況を検討する上で大変貴重な遺跡です。

堀内館跡

道路建設に先立ち実施された発掘調査であり、細長い調査区であるため館の全貌はわかっていません。それでも、調査区内で直角に曲がる幅110~150cm、深さ80~100cmの堀跡が発見されており、堀で囲まれた館跡が存在することがわかりました。堀の内側には掘立柱建物跡も確認されています。出土した遺物は少ないですが、13世紀末~14世紀初頭にかけてこの館が存続していたことがわかります。確認された堀跡より推定される館の規模は1辺約60mの方形になると思われ、在地土豪層の居館跡と考えられます。内部には溝で区画された空閑地があることから計画的な屋敷割りがされていたものと思われます。

三納トヘイダゴシ遺跡

室町時代の集落跡であり、掘立柱建物跡2棟、竪穴状遺構2基などが発見されています。周辺には幅10mクラスの川の跡や、畠と考えられる畝間溝が集中する場所もあり、当時のムラの中での土地利用の有り方がわかります。

三納ニシヨサ遺跡

鎌倉時代~戦国時代の集落跡で、中心となるのは室町時代です。掘立柱建物跡や竪穴状遺構などが発見されており、特に中国産の青磁・白磁が多く出土しています。当時としては貴重品であり、周囲の土地を管理するような、やや財力のある有力者層が暮らしていたのでしょう。

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