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奈良・平安時代の遺跡

ページ番号:0002705 印刷用ページを表示する 更新日:2018年12月25日更新 <外部リンク>

三日市ヒガシタンボ遺跡

区画整理事業に伴い、平成11年度に新たに発見された遺跡です。同16年に発掘調査が行なわれ、弥生時代後期後半と奈良・平安時代、中世にわたる集落跡であることがわかりました。この内、奈良・平安時代では竪穴建物6棟、掘立柱建物7棟以上が確認されています。また、平成15年に三日市A遺跡で発見された古代北陸道から北に200mほど離れて、今度は第2次古代北陸道ともいうべき道路状遺構が検出されました。前出の道路よりひと回り小さく幅6mほどですが、やはり直線的に堂々とした姿を見せています。全国的にみても9世紀後半から末頃にかけて官道が縮小改変されることが知られており、本遺跡もその例にもれずルートを変えて改修されたものでしょう。

三日市A遺跡

市の北西部に148,000平方メートル余りの広がりをもつ広大な遺跡で、地区により縄文時代から中世までの様々な時代の集落跡が重なりあっています。これまでの調査で、さまざまな時代の遺跡が微妙に場所を変えて移り変わっていくことがわかりました。

このうち、平成15年度の春から夏にかけて実施した調査では、奈良・平安時代に機能した古代北陸道と見られる道路状遺構が発見されました。両側に幅1mくらいの立派な側溝を備え、路面幅8mという堂々とした姿は現在でも通用するほどのものです。平成14年度・18年度に確認されていた部分を含めると、実に530mの区間が確認されたことになり、これまで不明とされていた全ルート解明に向けて貴重な成果を提供したと言えます。

また、この道路に建物主軸を直角にあわせた8×2間の大型の掘立柱建物も検出されており、周辺に当時の公的機能を備えた建物群が建っていた可能性が考えられます。それらが当時の「郷」の中枢に関係するのか、または官道に面した「駅家」に関係するものかは今後の調査の進展によって次第に明らかになって行くでしょう。

郷クボタ遺跡

平成11年度に新たに発見された遺跡です。時代としては中世段階が中心となり、奈良・平安時代のものとしては掘立柱建物が数棟見つかっている程度です。当時の集落としては、中心からやや離れた縁辺にあたるものと考えられます。

扇が丘遺跡群

扇が丘・住吉土地区画整理事業や高橋川改修工事に伴い発掘調査された遺跡群で、扇が丘ハワイゴク遺跡・扇が丘ヤグラダ遺跡があります。いずれも奈良・平安時代(8世紀~9世紀)に営まれた集落跡であり、石川県立埋蔵文化財センターが調査した部分(現高橋川河道)ではお堂と見られる掘立柱建物跡も確認されています。

三納アラミヤ遺跡

道路築造工事が行なわれる予定地の細長い調査区でしたが、竪穴住居跡3棟、掘立柱建物跡2棟が密集する居住区と、2本の溝ではさまれた道路状遺構が発見されています。ムラの東側には幅8mほどの川の跡があり、当時の土器はそこに捨てられたような状態で発見されました。

粟田遺跡

竪穴住居のカマド

縄文時代晩期~弥生時代初頭と奈良時代~近世にわたる集落跡ですが、中心となるのは奈良・平安時代でこれまでに竪穴住居跡40棟、掘立柱建物跡16棟、道路状遺構などが発見されています。

8~9世紀にかけての集落跡で、その変遷は大きく3時期に分けられます。それぞれ数棟ずつがまとまって、散居村のような景観を見せていたことが発掘調査の結果からわかりました。

 

 

 

下新庄タナカダ遺跡

遺跡推定地の西端部分のみの調査のため全体の様子はわかりませんが、8世紀中頃の竪穴住居跡3棟、掘立柱建物跡4棟などが発見されています。周辺一帯に大きく広がる当時の大集落の一部を形成していたものと考えられます。

下新庄アラチ遺跡

周辺の中心となる大集落跡であり、溝などで整然と区画された様子や規則的に並ぶ倉庫群の存在など、計画的に作られたことがわかります。

飛びぬけて大きく造りの丁寧な竪穴住居や、集落の中心(ムラの長の居宅)としての機能が受け継がれていく後の大型掘立柱建物の存在など、当時の拝師郷の中枢といっても良いくらいの内容を持った遺跡であり、円面硯や仏具である稜碗が出土していることとあわせ、8世紀から9世紀後半にかけての周辺の政治的中心地であったことがうかがわれます。

上林新庄遺跡

下新庄アラチ遺跡と同様周辺の中心的な大集落です。

その始まりはやや早く、7世紀前半代には人々が生活を始めていたようです。その後7世紀末までには急速に拡大し、8世紀には直線距離で約100m離れた下新庄アラチ遺跡と分化し、こちらは竪穴住居を主体とした鉄生産(小鍛冶)に関係する集団の居住区へと変化します。

鉄滓やフイゴの羽口、鉄製品などが特徴的に出土する土坑を伴う竪穴住居が集落中心部分に集中し、そのまわりを取り巻くように掘立柱建物が立ち並んでいる様子は、自然発生的な製鉄集落というよりは徹底した管理体制のもとおこなわれたいわば職人の街のような印象を受けるものです。拝師郷の中枢として、下新庄アラチ遺跡の成員主導の下その機能を分担していたのでしょう。
7世紀前半に造営された上林古墳も、この遺跡の範囲の中に含まれています。

上林テラダ遺跡

上林新庄遺跡と同時期に開始された集落であり、一体のものと考えられます。調査面積がせまかったため、詳しい内容はわかりませんでしたが、後に続く集落の急速な拡大と充実の礎を築いた遺跡と言えます。集落の中心は、林郷八幡神社をはじめとする現在の上林3丁目方面へ延びていると思われます。

 

上林遺跡

周辺に広がる鶴来町安養寺・柴木・部入道地内の遺跡と併せて安養寺遺跡群と総称されています。上林・新庄地区に広がる遺跡群が9世紀末を境にほぼ消滅するのに対して、こちらの遺跡群は9世紀半ば以降10世紀にかけて営まれています。しかし、平成9年度に野々市町が発掘調査した部分では9世紀前半頃の掘立柱建物跡が1棟発見されており、部分的には若干集落の開始が早まる可能性があります。

 

上新庄ニシウラ遺跡

発掘調査の様子

奈良・平安時代の主な遺構としては、竪穴住居跡5棟、掘立柱建物跡15棟などが発見されています。集落の変遷は大まかに5時期にわかれ、一時期に建っていた建物の数は大型の主屋級の建物が2棟に付属屋が各1~2棟程度です。大型の建物を中心に南北に分かれて、それぞれ建て替えを行ないながら生活していたようです。建物の規則的な配置から、北に約80m離れた上林新庄遺跡と同一の集落と思われ、鉄生産を行なっていた集団の管理施設のようなものであったのでしょう。

 

 

 

末松遺跡群

野々市市では御経塚地区と並んで遺跡密度の高い地域であり、末松(A)遺跡・末松B遺跡・末松ダイカン遺跡・末松福正寺遺跡・末松信濃館跡・末松しりわん遺跡を併せた総称です。それぞれ古墳時代末から平安時代にかけて営まれた集落跡であり、遺跡の名前からもわかるように一部幕末までその痕跡を残していたと伝えられる中世段階の館跡なども重なっています。国指定史跡である末松廃寺跡の建立の背景を探るためにもとても貴重な遺跡群であると言えます。

末松廃寺跡

史跡公園空中写真

白鳳時代(7世紀後半)に建立された大寺院跡であり、西に金堂、東に塔を配する「法起寺式」という伽藍配置を採用しています。発掘調査の結果、南大門や講堂は発見されませんでしたが、塔は柱の間隔の大きさなどから七重の塔の可能性が指摘されています。このお寺は創建後8世紀後半の段階で一旦廃絶されますが、約100年の時を隔てて9世紀後半には再建されたようで、掘立柱建物跡が確認されています。この時金堂は規模を縮小し、軸を違えて建てられており、塔はついに再建されなかったようです。

 

 

 

 

 

清金アガトウ遺跡

石川県立埋蔵文化財センター及び(社)石川県埋蔵文化財保存協会、野々市市教育委員会によって発掘調査が行なわれました。竪穴住居跡16棟、掘立柱建物跡9棟、その他道路状遺構などが発見されており、8世紀後半から10世紀後半まで営まれた集落であることがわかりました。

末松遺跡群とは至近距離にあり、やや遅れて開始されたもののほぼ同時期に機能していたものと考えられます。

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