ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

弥生時代

ページ番号:0003783 印刷用ページを表示する 更新日:2018年12月25日更新 <外部リンク>

御経塚シンデン遺跡

土器廃棄土坑

弥生時代後期後半~古墳時代初頭に営まれた集落跡です。
竪穴住居跡22棟、掘立柱建物跡36棟が確認されており、集落の変遷は大きく4つの時期に区分されます。

この遺跡で特徴的なことは、竪穴住居に比べて掘立柱建物の数が非常に多いことであり、36棟中23棟が布掘式と言われる、柱穴と柱穴の間を溝でつなげたような構造をしています。

この時期の一般的な集落は、竪穴住居3~4棟に対して掘立柱建物が1棟程度の割合ですが、ここでは竪穴住居を上回る数の掘立柱建物が存在していました。

倉庫であったと考えられているこれらの建物の多さは、その中に蓄えられたもの(主に稲と思われます)の量の多さを表していると考えられ、周辺でも大きな財力をもった集落であったことがわかります。

 

御経塚遺跡デト地区

北陸最大級の竪穴住居

縄文時代の集落跡である御経塚遺跡の南側に隣接して広がる弥生時代後期後半~古墳時代初頭の集落跡であり、御経塚シンデン遺跡とは直線距離で約350m離れています。

主な遺構としては、竪穴住居跡10棟、掘立柱建物1棟が確認されています。
この遺跡で特徴的なことは、当時としては北陸最大級の竪穴住居が見つかったことです。
長径16.4m、短径14.5m、床面積約189平方メートルのこの住居は、畳にすれば実に115畳敷あまりの広さを持っており、柱を9本持つ多角形(六角形?)の姿をしています。

外側に掘られた排水溝と思われる周溝を含めると、433平方メートルと、なんと260畳敷以上の面積を占めていることになります。

近くには、部分的な確認ですが同じような大きさの竪穴住居がもう1棟あったこともわかっており、この地域一体の中心的な部分であったことがわかります。

 

御経塚遺跡ツカダ地区

御経塚遺跡の東側一帯に広がる弥生時代後期後半~末の集落跡であり、出土した土器は弥生時代終末期の北加賀地方を代表する良好な資料となっています。

確認された主な遺構は竪穴住居跡12棟、掘立柱建物跡(布掘式)1棟と、周辺のほかの遺跡に比べればやや寂しいですが、大型・中型・小型の竪穴住居がセットとなって集落の中で移動している様子をうかがうことのできる点で良い資料と言えます。

 

御経塚オッソ遺跡

御経塚地区の西端、白山市と境を接するところに広がる弥生時代後期後半を中心とした集落跡です。

調査面積が狭かったため、確認された主な遺構は竪穴住居跡2棟、掘立柱建物跡1棟と少ないですが、竪穴住居2棟の内長方形2本柱の方は形態的には加賀地方では最大級のものであり、隅丸方形4本柱のもう1棟は玉造りに関係した住居であった可能性があります。

 

長池ニシタンボ遺跡

弥生時代末~古墳時代初頭に営まれた集落跡です。

確認された主な遺構は、竪穴住居跡3棟、平地式住居4棟、掘立柱建物跡6棟であり、出土状況より竪穴住居と掘立柱建物がセットとなって構成されていたことが確認されており、当時のムラの姿を想像できる良い資料となっています。

また、竪穴住居と異なり床を掘り下げない平地式住居の確認例は野々市市の中では唯一のものです(周辺では金沢市上荒屋遺跡で確認されています)。

 

二日市イシバチ遺跡

弥生時代後期後半から古墳時代初頭にかけてと中世にわたる複合遺跡であり、確認された主な遺構として竪穴住居跡19棟、掘立柱建物跡9棟、倉庫と思われる布掘式の掘立柱建物2棟があります。

この内竪穴住居跡は県内でも最大級となる大型のものが多く、細かな時間差の中で形が移り変わっていく様子のわかる大変貴重な成果を得ることができました。

また、周辺のほかの集落が古墳時代に移り変わる中で廃絶されていくのに対して、古墳時代になっても依然として同じ場所で集落を営んでいるという、この地においての中心的な集落であることがわかりました。後に続く古墳群の造営とあわせ、まさに王国といっても良いほどの内容を持った遺跡です。

 

三日市A遺跡

148,000平方メートルにもわたって広がる広大な遺跡であり、平成11年度に新たに発見されました。

縄文時代から中世にかけて断続的に営まれた集落跡であり、場所によってそれぞれ中心となる時代が違います。
ここで扱う弥生時代の集落跡は、主に遺跡の北東側(JR野々市駅周辺から国道8号線方面にかけて)に集中している傾向が見られ、後期後半頃の円形に近い多角形の竪穴住居跡が2棟、隣り合うようにして確認されました。

これらの住居は当時としてはやや大型の部類に入るものであり、外側には排水のためと思われる外周溝が巡っています。御経塚遺跡デト地区で見られた住居形態と同じものであり、両者の関係が注目されます。

 

押野ウマワタリ遺跡

弥生時代末の集落跡であり、ムラの一部分の発掘調査でしたが竪穴住居跡3棟、掘立柱建物跡2棟などが発見されています。

その様子から、大型住居に中型住居・掘立柱建物がセットとなって1家族(単位)を形作っている様子がよくわかります。

特に、土坑から見つかった赤く塗り飾られたフタを持つ壷は、金沢市西念・南新保遺跡から出土した桶形木製品を模したものと思われ、大変めずらしいものです。

 

押野タチナカ遺跡

弥生時代後期後半~末に営まれた周辺でも中心的な大きな集落跡であり、竪穴住居跡29棟、掘立柱建物跡11棟などが発見されました。

ムラの様子は、大型住居1棟に対して中型住居1~2棟、小型住居1~2棟程度が1組になって1単位を構成しており、これに倉庫と思われる掘立柱建物が2~3棟加わって全体的には3時期に分けられるようです。

遺物も豊富(特に土器)に出土しており、弥生時代後期後半頃の平地における集落構成の典型的な例を示していると言えます。

 

扇が丘ハワイゴク遺跡

竪穴住居(隅丸方形)

高橋川の左岸を中心に広がる弥生時代、奈良・平安時代、中世にわたる複合遺跡であり、中心は中世の居館跡です。

ここで扱う弥生時代のものとしては、竪穴住居跡1棟が確認されていますが、周辺の金沢市に広がる遺跡でも当時の遺構や遺物が出土しており、一定の広がりを持っていたことがわかります。

 

 

 

 

 

高橋セボネ遺跡

弥生時代後期後半の集落跡であり、竪穴住居跡16棟、掘立柱建物跡7棟などが発見されています。

ムラの様子はこれまでの他遺跡と同様、大型住居1棟に中・小型住居が周囲に配置されている構造で、出土した土器の観察から3時期に分けられることがわかります。

掘立柱建物は集落のほぼ中央の空閑地付近に位置する傾向が見られ、全体として中央に公共の場である広場を持っていることがわかりました。また、竪穴住居から出土した遺物からこのムラには玉造りに関係した集団が住んでいた可能性が考えられています。

扇が丘ハワイゴク遺跡とあわせ、旧高橋川の自然堤防上に広がる当時の集落の分布を知る上で、貴重な調査成果であると言えます。

 

上新庄ニシウラ遺跡

竪穴住居(隅丸方形)

弥生時代末~古墳時代初頭と奈良・平安時代に営まれた集落跡であり、弥生時代のムラとすればめずらしく手取川扇状地の扇央部に位置する遺跡です。

当時のものとしては竪穴住居跡4棟、掘立柱建物2棟、集落を区画していたと思われる溝1条が確認されています。

溝から出土した遺物の観察から、この遺跡は弥生時代から古墳時代に移り変わる複雑な社会状況の上に成立した集落跡であり、手取川の氾濫という厳しい自然条件とあいまって、とても短い期間で廃絶されたことがわかりました。

みなさんの声を聞かせてください

このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?