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国指定文化財

ページ番号:0001925 印刷用ページを表示する 更新日:2018年12月25日更新 <外部リンク>

重要文化財 喜多家住宅 主屋および道具倉二棟

喜多家外観
喜多家内部の様子

喜多家はもとは高崎姓を名乗った越前武士で、江戸中期に禄を離れ加賀に移住した。その後野々市で灯油の製造販売を生業とし、屋号を油屋といい幕末からは酒造業を営んだ旧家である。明治24年野々市の大火で罹災し、現住居の新築にあたって金沢市材木町の醤油屋の主屋を買い求め移転、同年11月に完成した。

この住宅は、通りに面して間口7間半もある大型町屋で、奥行き7間にわたって2階を設けている。移築の際に、座敷まわりが整備されたほかは移築前の旧態を各部によく残している。構造手法から推測すると19世紀中頃につくられたようである。

平面は通り土間式で、土間沿いは前面に板敷きの帖場(みせ)、奥に5間通しの広い「おえ」がある。土間境は間仕切りをつくらず、上がり框だけで開放になり、広い空間をつくり出す。この部分はまた2階が設けられず吹き抜けになるので、縦横に架けられた大梁や梁行に架かる二重梁、三重梁、その間に2段に貫が通る小屋束などの構造が仰ぎ見られ、意匠的にも洗練されている。通りに面した外観は、細い縦格子や庇の「さがり」、2階の妻にみられる腕木に支えられた袖壁など、加賀の町屋の典型的なものであり、また建物自体も上質で、石川県で遺存する町屋の中では年代も古い貴重なものである。

なお、道具倉は明治に罹災し改築を受けており、主屋と違って移築したものではないが、町屋の外観を示す一要素であり、あわせて指定保存がはかられた。

国指定記念物 史跡 末松廃寺跡

史跡末松廃寺跡整備状況
末松廃寺跡復元模型

末松廃寺跡復元模型(ふるさと歴史館蔵)

明治44年、耕地整理の際にその付近から多数の土器類が出土した。

昭和11、12年にわたり、末松の有志は学識者の指導を得て発掘調査を行なったところ、地下約1mに根石群を発見したのでこれを文部省に報告し、同年3月同省の実地調査をうけて末松廃寺跡保存会を結成した。

その後昭和36年3月に、末松の高村誠考氏が用水溝から銀製和銅開珎を発見したことにより、同38年に石川考古学研究会が試掘・測量を行い、その後文部省記念物課は現地踏査の上、同41年と42年において国営事業により本格的な発掘調査が実施された。

調査の結果、本廃寺跡は7世紀第三四半期(白鳳時代)に建立され、奈良時代中頃までに廃絶されたものであることが判明し、西に金堂、東に塔を配する法起寺式の伽藍配置をとることが確認された。特に塔跡の規模は予想外に大きく、国分寺級の七重の塔であったと推定されている。廃絶後、本寺は平安時代中頃に一度再建されるが、そのときは金堂がやや縮小し、塔はついに再建されることはなかった。建立した豪族については不明な部分が多いが、当時北加賀一帯を支配した「道の君」一族であるとする説が有力である。

昭和43年より3ヵ年をかけて環境整備事業が行なわれ、現在は遺構の一部が復元され、史跡公園として親しまれている。
※末松廃寺公園内の一部敷地は国から無償で借受しています。

国指定記念物 史跡 御経塚遺跡

御経塚遺跡
復元住居

御経塚遺跡は、縄文時代後期中葉より晩期(約3,700年から2,500年前まで)にかけて営まれた大集落跡である。昭和29年に旧押野中学生徒により発見され、これまで数度の発掘調査が実施されている。

調査の結果、集落は南北約200m、東西約250mの範囲を中心域とし、竪穴住居跡6棟、円形掘立柱建物跡20棟、方形掘立柱建物跡14棟、亀甲形掘立柱建物跡31棟、石囲炉27基、焼土遺構3基、土坑317基、配石遺構4基、埋設土器41基などが検出された。

集落は中心部に共同の祭祀・集会の広場を持ち、この周囲に住居が環状に並んでいる。約1,200年間にわたり縄文人の暮らしが営まれ、彼らが使用した土器、石器等は発掘調査において膨大な数が出土している。食物を煮沸した土器や堅果類を磨り潰した道具の石皿、狩猟を物語る石鏃、広場において執行される儀礼や祭礼に用いたと思われる呪術具としての土偶、石棒、御物石器などは当時の生活を偲ばせるものである。土坑や住居跡、配石跡などの遺構の検出と併せ、北陸の縄文時代後から晩期までを理解する上で貴重な遺跡である。

昭和54年度より四ヵ年計画で環境整備事業が実施され、社会教育・生涯学習の実践の場として県内外の住民に親しまれている。

また、隣接する野々市市ふるさと歴史館では、御経塚遺跡や市内全域の発掘調査により出土した考古資料や収集された歴史資料を見学することができ、夏休み期間を中心に文化財普及啓発事業の一環として古代体験まつりも実施されており、子供たちにも好評を博している。

重要文化財 石川県御経塚遺跡出土品(考古資料)

縄文土器
土偶
石器の画像
石製品(装飾品)
石製品(祭祀等)
骨角器

御経塚遺跡出土品は御経塚遺跡発掘調査で出土した、縄文時代後期中葉から晩期終末にかけての、土器・土製品類542点、打製石斧、石鏃、磨石、敲石、凹石等の石器、石製品類3642点、骨角器類残欠23点などである。

とりわけ大量に出土した縄文土器は、深鉢形、浅鉢形を中心とし、東日本と西日本双方の影響を受けつつ、北陸地方独自の地域的な特徴をもつ土器群で、編年的な連続性も認められ、北陸地方の標式資料とされている。また、この地域で最も出土数が多い土偶は、その形態や文様から時期区分の可能なものが多く貴重である。

石器類の構成は、打製石斧、磨石、敲石、凹石、石皿が約70%を占め、根茎類の採集や木の実の加工など植物質食料に依存する生業活動が重視された状況を示すものである。

また、石製品類には御物石器(ぎょぶつせっき)や多様な形の石冠(せっかん)、石剣などの特殊な遺物も多数含まれ、御経塚遺跡の出土品を特色づける。

垂飾・玉類の約半数は、新潟県姫川上流産の硬玉を利用した製品で、交易の実態もうかがえる。

以上御経塚遺跡出土品は、北陸地方を代表する、縄文時代後期から晩期にかけての長期にわたる集落遺跡出土品として、生業や精神活動を復元するうえで貴重な一括資料である。

重要無形文化財 蒔絵保持者・中野孝一

蒔絵
中野孝一氏

蒔絵は、漆芸の装飾技法の一つであり、漆で描いた下絵に金粉、銀粉などを蒔き付けて文様を表す技法である。

奈良時代に技法の源流が見られ、平安時代以降、わが国で高度に発達した。蒔絵は、貝を用いる螺鈿(らでん)、金属板を用いる平文(ひょうもん)、卵の殻を用いる卵殻などの技法と併用されることが多く、幅広い表現が行われている。

中野孝一氏は石川県に生まれ、大場勝雄(雅号・大場松魚、昭和57年重要無形文化財「蒔絵」〈各個認定〉保持者)に師事し、蒔絵を中心とする伝統的な漆芸技法を幅広く修得した。その後さらに研鑽を積み、蒔絵技法およびその表現について研究を深めた。
各種の伝統的な蒔絵技法を高度に体得しており、中でも高蒔絵の技法を特徴とするほか、変り塗を応用した独自の蒔絵技法や研出蒔絵、螺鈿、平文、卵殻等の技法を併用し、多彩な表現を行う。
兔や栗鼠など可憐な小動物の躍動感に満ちた姿を生き生きと表現し、軽妙洒脱な独自の作風は高く評価される。

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