正徳の一揆と野々市
武士の暮らしは、主に農民が納める年貢米(ねんぐまい)によって支えられていました。気候が悪くて米があまりとれなくても、年貢米として納める量は、加賀藩から村にあてた書類で決められていて、村のとれ高の半分以上を納めていました。
1712[正徳2]年は天候が変わりやすい年で、8月10日に100年に一度というほどの強い西風が吹き、この風が海の塩気をふくんでいたために、稲は大きな被害を受けました。農民たちは年貢米を減らしてもらうため、被害のようすを調べることを藩にお願いしたのですが、野々市を含む石川郡は、調べる対象からはずされてしまいました。9月から10月には、調査を求める農民たち大勢が団結して金沢におしかけ、一揆として藩に反抗する騒ぎがおこりました。
農民たちが行った反抗は、藩主(はんしゅ)たち支配者を恐れさせました。加賀藩としてはこのような騒ぎを許すことはできず、石川郡では22人を牢屋(ろうや)に入れる重い処分を行いました。