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縄文時代

ページ番号:0002708 印刷用ページを表示する 更新日:2018年12月25日更新 <外部リンク>

御経塚遺跡

御経塚遺跡の画像

縄文時代後期中葉~晩期(約3,700~2,500年前)にかけて営まれた径約200mの円形をした大集落跡で、1954年(昭和29)に地元の中学生によって発見されました。その後の発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡などのほかに、数えきれないほどの土器や石器、装身具やまじないに使われたと思われる不思議な形をした石製品が出土しており、北陸の縄文時代晩期を代表する遺跡として全国的にも注目を集めました。
大変貴重な遺跡であるため1977年(昭和52)には国の史跡に指定され、現在は約15,000平方メートルが史跡公園として整備されており、周辺住民の憩いの場および歴史教育の場として有効活用されています。隣接する野々市市ふるさと歴史館では、発掘調査によって得られた出土品をやさしい解説とともに見ることができます。

御経塚シンデン遺跡

縄文時代・弥生時代・古墳時代・中世にわたる複合遺跡であり、ここで紹介する縄文時代のものとしては市内でも最古級にあたる約3,800年前の土器が発見されています。当時の川跡からの出土であり、住居跡や建物跡が発見されていないためムラとしての様子を知ることはできませんが、東日本系と西日本系、在地系の土器が複雑に影響しあっている様子が土器の紋様から確認されており、当時周辺でもヒトとモノの広範囲な移動と交流があったことがわかります。

野代遺跡

1954年(昭和29)に旧押野中学校の生徒たちによって発見されました。その時には縄文時代晩期の土器片が確認されましたが、現在までに本格的な発掘調査は行なわれておらず、詳しいことはわかっていません。

押野大塚遺跡

縄文時代と弥生時代、古墳時代にわたる複合遺跡であり、前者については野々市市では最も古い縄文時代後期前葉(約4,000年前)に遡る土器が発見されています。土器の紋様からやはり東・西日本の影響を受けていたことが確認されており、早くから他地域との交流があったことを物語っています。住居跡や建物跡などは確認されていませんが、火を焚いたと思われる炉跡が発見されていることから、当時人々がこの地で暮らし始めていたことがわかります。人々は、その後隣接する金沢市米泉遺跡へ移動したと思われ、目だった生活の痕跡は見られなくなります。

富樫館跡ノダ地区

広大な富樫氏の館跡推定地に含まれており、中世の遺構面の下に縄文時代後期中葉(約3,700年前)の遺構が残されていました。出土した土偶は現存する長さでは野々市市でも最大級のものであり、首から下の左半身が失われているものの全形をうかがうことのできる資料として大変貴重なものです。周辺では小規模な発掘調査が多く行なわれていますが、ほぼ例外なくこの時期の土器片が出土することから、当時一定の広がりをもった集落が営まれていた可能性が高いと考えられます。

三納トヘイダゴシ遺跡

縄文時代と中世の複合遺跡であり、縄文時代としては後期中葉(約3,600年前)の土器片や石器、土偶の胸の部分などが出土しています。住居跡や建物跡などが確認されていないため、当時の生活の様子はわかりませんが、押野・御経塚地区だけでなく富奥地区でも当時すでに人々の生活が始まっていたことは間違いないようです。

粟田遺跡

縄文時代末~弥生時代初め頃と奈良・平安時代、中・近世にわたる複合遺跡です。前者では住居跡などの目だった遺構は発見されておらず、ムラとしての様子を知ることはできませんが、この遺跡で特徴的なことは石器(打製石斧-土掘具)を作るための石材を採取する、石器の大々的な1次製作地であったと判明したことです。地面に多数顔を出している川原石に混じって、人が故意に打ち割ったと思われる石材や剥がれた剥片が大量に出土していることから、当時の人々がここで原料となる石を製品に近い形にまで荒割りして、自分たちのムラに持ち帰って仕上げていたと考えられます。

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