藩主からいただいた「ご神体」
徳用(とくもと)村の肝煎(きもいり)[村の長]をしていた仕平(しへい)さんの夢に、金沢城内の神様が現れて「徳用村に行きたい」とお告げがありました。仕平さんは、打ち首を覚悟して金沢城内の金谷御殿(かなやごてん)に住む13代藩主であった前田斉泰(まえだなりやす)に「村の神社のご神体がなくなっているので、斉泰様の書いたものをいただき、それをご神体にしたい」と嘆願書(たんがんしょ)[願いごとを書いた手紙]を出しました。その時殿様は、「仕平と同じ夢をみた」と言い、金谷御殿にあった八幡宮(はちまんぐう)を徳用村に与えることになりました。
金沢市の尾山神社の場所にあった金谷御殿の八幡宮は、現在の東京都新宿区西早稲田(わせだ)にある穴(あな)八幡宮の神様を金沢城内の守り神としてむかえたものでした。
これまで藩主が祀(まつ)ってきたご神体だけでなく、縁起(えんぎ)[神社の由来を書いたもの]や建物、鳥居(とりい)までを農村の徳用に譲ったことは、明治時代はじめの頃の出来事としては、とても驚くようなことでした。
光松八幡神社(こうしょうはちまんじんじゃ)
本殿の扉
前田家の梅鉢(うめばち)の家紋(かもん)があります。