古墳時代の遺跡
御経塚シンデン古墳群
直前まで営まれていた集落(御経塚シンデン遺跡)を移動させて造営された古墳時代初頭から前期にかけての古墳群です。
発見された時は小山のような墳丘はすでに失われており、周囲を巡る周溝のみの確認であり、主体部(埋葬施設)の痕跡もわかりませんでした。
前方後方墳4基(推定されるもの1基を含む)と方墳11基の全15基で構成される大古墳群であり、平地に残る前期古墳群としてそれまでの概念を覆す貴重な発見となりました。
古墳の変遷は、首長の権力を継承すると思われる前方後方墳の造営を核として、近親者及び同族と思われる方墳が一定の規則性をもって造営されており、全体では4期に分かれると考えられます。
出土した土器に見られる各地の影響とともに、地方の首長が「クニ」の成立に向けてより大きな権力の中に組み込まれていく過程をうかがわせる貴重な遺跡です。なお、古墳群の模型(ジオラマ)は野々市市ふるさと歴史館で見ることができます。
この古墳群は、その後の古墳時代後期(6世紀末~7世紀前半頃)には再び集落が営まれるようになります。わずか300年たらずの間に、周辺は祖先の墓域として畏怖の対象ではなくなっていたようです。
御経塚遺跡ツカダ地区
古墳時代後期(6世紀末~7世紀)の集落跡であり、竪穴住居跡3棟、掘立柱建物跡6棟などが確認されています。
竪穴住居の隅から発見された土器は当時の一括資料として貴重なものであると同時に、量の少なさと焼き損じて歪んだ土器までも使用しているなど、この地域での須恵器の不十分な流通状況を表しています。
このほかにも、周辺では小規模ながら当時の集落が部分的に確認されており、一定の広がりをもっていたものと考えられます。
押野大塚遺跡
通称「オオツカ」という地名のとおり、江戸時代には周囲約73mの大きな古墳があったと伝えられていますが、明治時代におこなわれた耕地整理により失われてしまいました。周辺を治めた有力者の墓と考えられます。
上林新庄遺跡・上林古墳
7世紀前半代から開始され、続く奈良時代には爆発的に拡大し周辺の拠点的集落へと発展しました。
古墳時代の集落は住居跡も少なく散居村的な景観を見せていますが、注目されるのは7世紀初頭に作られた横穴式石室を持つ古墳の発見です。
上部は削平されており、石室最下列だけの確認でしたが、長さ7.9m、幅1m余りの片袖式かと思われるものでした。人頭大の川原石を並べて作られており、奥壁が特に激しく壊れていることから作られて間もない頃に盗掘にあった可能性もあります。
当時開発の難しかった手取川扇状地の開発に挑んだ開発領主層の壮大な記念碑と言えます。
末松古墳
野々市市の南西端、末松にある大兄八幡神社の境内に参道をはさんでその名残を見せています。
これまで本格的な発掘調査が行なわれたという記録は残っておらず、主体部(埋葬施設)があったと思われる部分もすでに壊されています。正確な測量を行なったわけではありませんが、住宅地図からの略側では径20m前後の大きさであろうと思われます。
規模や立地、形態から上林古墳と並び、困難な扇状地開発に挑んだ開発領主層の古墳であったと考えられます。
二日市イシバチ遺跡
弥生時代後期後半から続く集落跡が大きく成長し、古墳群を形成するまでになりました。
確認された古墳は全部で5基で、いずれも方墳という四角い形をしたものであると考えられます。道路築造予定地の細長い調査区であり、全形が確認できたものはありませんが、一番大きなものでは一辺25mを超えるようなものも確認されています。
この時期の集落は、古墳時代を迎えると同時にその場所を移動してしまうことが多いのですが、本遺跡は弥生時代の集落が古墳時代初頭を通じて営まれ続けた様子を見ることができる大変貴重な例であり、集落の西どなりに墓域を設けたムラの景観全体が想像できる県内でも珍しい例です。
25mを超えると思われる方墳
手前は最初に発見された方墳
当時の竪穴建物から並んで発見された甕と壷
上新庄チャンバチ遺跡
野々市市南部の新庄地区で平成29年に行った発掘調査で、前方後方墳1基、方墳1基が発見されました。
前方後方墳は全長18.4メートル、方墳は一辺9.6メートルほどで、御経塚シンデン古墳でみつかったものと形状や規模が類似していることから、古墳時代前期初頭ごろに築かれたものと考えられます。
野々市市南部地域ではこれまで古墳時代前期の古墳は発見されておらず、この発見により、かつてこの地域に古墳を築く有力者が存在したと考えられます。
前方後方墳
方墳