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国指定文化財

ページ番号:0001925 印刷用ページを表示する 更新日:2018年12月25日更新 <外部リンク>

重要文化財 喜多家住宅 

喜多家正面写真
喜多家内部の様子
喜多家住宅 庭

喜多家は、元は福井藩の武士であり、貞亭3年(1686)、藩を離れてこの野々市に移り住んだ。その後、菜種油を売る商人となり、明治時代からは酒造りを営んだ。明治24年(1891)4月、野々市で大火があり、喜多家住宅も三棟の土蔵を残して他はすべて焼失した。現在残っている主屋は、火災の後、金沢市材木町の醤油屋の建物が移築されたものである。

主屋は加賀の町屋の典型的な建物であり、石川県に残る町家の中では最も古いものである。また、主屋の奥には酒蔵や作業場など、明治時代からの酒造り施設が良好に残っている。喜多家は、加賀地方の商家を代表とする主屋と酒造業の原型を遺す貴重な建物であることから、昭和46年(1971)に主屋と道具蔵、令和元年には酒造場が国の重要文化財に指定された。

国指定記念物 史跡 末松廃寺跡

史跡末松廃寺跡整備状況
末松廃寺跡模型写真

末松廃寺跡復元模型(ふるさと歴史館蔵)

末松廃寺跡は、白鳳(はくほう)時代の7世紀後半に建立された古代の寺院跡である。

この寺は、江戸時代からその存在が知られており、昭和12年(1937)、地元学識者の指導を得て発掘調査を行ったところ、金堂跡や塔跡の一部を確認し、北陸地方における優れた古代寺院遺跡として認められ、昭和14年(1939)国の史跡に指定された。

その後昭和36年(1961)に、地元の末松住民が用水溝から銀製和銅開珎を発見したことにより、古代寺院の全容解明の機運が高まったことで、昭和41年(1966)、42年(1967)に本格的な発掘調査が実施された。

調査の結果、西に金堂、東に塔を配する法起寺(ほうきじ)式の伽藍(がらん)配置であることが確認された。特に塔跡の規模は想定以上に大きく、七重の塔であったと推定されている。この寺は平安時代に一度再建されるが、そのときは金堂の規模がやや縮小し、塔は再建されず、焼き物で表した瓦塔(がとう)が置かれたようである。金堂の周りからは屋根に葺(ふ)いた大量の瓦が出土した。瓦には丸瓦、平瓦、軒丸瓦があり、能美市の湯屋窯(ゆのやかま)跡で焼かれ運ばれたことが分かっている。また、中門推定地付近からは女性の人物像が描かれた瓦塔の一部品が発見された。このような瓦塔に高貴な女性の絵を描いた例は他になく全国初の出土例である。

昭和46年(1971)遺構の一部が復元した整理事業が完成し、現在、史跡公園として市民に親しまれている。なお、平成26年(2014)から史跡公園の再整備のための発掘調査が継続して行われている。

※ 末松廃寺跡公園の一部敷地は国から無償で借受しています。

国指定記念物 史跡 御経塚遺跡

御経塚遺跡
復元住居

御経塚遺跡は、縄文時代後期中葉より晩期(約3,700年から2,500年前まで)にかけて営まれた大集落跡である。昭和29年に地元の中学生により発見され、これまで複数回発掘調査が実施されている。

調査の結果、集落は南北約200m、東西約250mの範囲を中心域とし、竪穴住居跡や掘立柱(ほったてばしら)建物跡、石囲炉(いしがこいろ)、配石(はいせき)遺構などが見つかった。

集落は中心部に共同の祭祀・集会の広場を持ち、この周囲に住居が環状に並んでいる。約1,200年間にわたり縄文人の暮らしが営まれ、当時の人が使用した土器、石器等は発掘調査において膨大な数が出土している。食物を煮炊きした土器やクリやドングリなどの堅果(けんか)類を磨り潰した道具の石皿(いしざら)、狩猟(しゅりょう)を物語る石鏃(せきぞく)、広場において執行される儀礼(ぎれい)や祭礼に用いたと思われる呪術(じゅじゅつ)具としての土偶(どぐう)、石棒(せきぼう)、御物(ぎょぶつ)石器などは当時の生活を偲ばせるものである。御経塚遺跡は、北陸の縄文時代を理解する上で貴重な遺跡で、昭和52年(1977)国史跡に指定され、指定地の一部は、復元した竪穴住居を設けるなど史跡公園として活用している。

また、隣接する野々市市ふるさと歴史館では、平成22年(2010)に国指定文化財に指定された御経塚遺跡出土品や市内全域の発掘調査により見つかった考古資料や収集された歴史資料を見学することができ、夏休み期間を中心に土器づくりや勾玉づくりなど古代の生活を体験できるイベントも実施されており、子供からの人気も高い。

重要文化財 石川県御経塚遺跡出土品(考古資料)

縄文土器
土偶
石器の画像
石製品(装飾品)
石製品(祭祀等)
骨角器

御経塚遺跡出土品は御経塚遺跡の発掘調査で出土した、縄文時代後期から晩期にかけての、土器・土製品類542点、打製石斧(だせいせきふ)、石鏃(せきぞく)、磨石(すりいし)、敲石(たたきいし)、凹石(くぼみいし)等の石器、石製品類3642点、骨角器(こっかくき)類残欠23点などである。

大量に出土した縄文土器は、深鉢形、浅鉢形を中心とし、東日本と西日本双方の影響を受けつつ、北陸地方独自の地域的な特徴をもつ土器群で、その形状で年代を特定する北陸地方の標式資料とされている。また、この地域で最も出土数が多い土偶(どぐう)は、その形や文様から時期区分の可能なものが多く貴重である。

石器類は、打製石斧、磨石、敲石、凹石、石皿(いしざら)が多く見つかり、根茎(こんけい)類の採集や木の実の加工など植物質食料に依存する生業活動が重視された状況を示すものである。

また、石製品類には御物石器や多様な形の石冠(せっかん)、石剣(せっけん)などの祭祀・儀礼に使用した遺物も多数含まれ、御経塚遺跡の出土品を特色づける。

アクセサリーに使用したとされる垂飾(たれかざり)・玉類の約半数は、新潟県姫川上流産の翡翠(ひすい)を利用した製品で、交易の実態もうかがえる。

御経塚遺跡出土品は、北陸地方を代表する、縄文時代後期から晩期にかけての長期にわたる集落遺跡出土品として、生業や精神活動を復元するうえで貴重な一括資料である。

重要無形文化財 蒔絵保持者・中野孝一

蒔絵
中野孝一氏

蒔絵(まきえ)は、漆芸の装飾技法の一つであり、漆で描いた下絵に金粉、銀粉などを蒔き付けて文様を表す技法である。

奈良時代に技法の源流が見られ、平安時代以降、わが国で高度に発達した。蒔絵は、貝を用いる螺鈿(らでん)、金属板を用いる平文(ひょうもん)、卵の殻を用いる卵殻などの技法と併用されることが多く、幅広い表現が行われている。

中野孝一氏は石川県に生まれ、大場勝雄(雅号・大場松魚、昭和57年重要無形文化財「蒔絵」〈各個認定〉保持者)に師事し、蒔絵を中心とする伝統的な漆芸技法を幅広く修得した。その後さらに研鑽(けんさん)を積み、蒔絵技法およびその表現について研究を深めた。
各種の伝統的な蒔絵技法を高度に体得しており、中でも高蒔絵の技法を特徴とするほか、変り塗を応用した独自の蒔絵技法や研出蒔絵、螺鈿、平文、卵殻等の技法を併用し、多彩な表現を行う。
うさぎやねずみなど可憐な小動物の躍動感に満ちた姿を生き生きと表現した独自の作風は高く評価される。

 

国登録有形文化財 旧藤村家住宅(田村家住宅)

田村家土塀正面全景

田村家主屋正面

この住宅は、明治・大正期の実業家である藤村理平の旧宅である。明治11年(1878)、明治天皇北陸巡行(じゅんこう)の際、藤村家が休憩所となっており、通りに面した表門や離れはその当時の姿を残している。

その後、家屋は田村家に移り、昭和前期には離れを残して、奥に現在の主屋を建て替えた。主屋は、入母屋(いりもや)造りの多重屋根をした豪壮な外観の造りをしている。明治天皇の御小休所となった離れの座敷(仏間)は、12畳半もの大きな部屋で、座敷境の彫刻欄間は、富士を題材にするなど上質な設(しつら)えをもつ。

主屋や離れの建物とともに、通り前の幕末に建てられた蔵や、敷地を区画する門、土塀を含め、旧北国街道沿いに建つ歴史的な屋敷景観を見ることができる。

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