史跡の紹介
住吉の宮
富樫氏領内の総社で、歴代の守護神を祀る。永延元年、第六十六代一条天皇の勅命により、富樫忠頼が加賀国司として着任し、仁政を施したため正暦四年永住の勅定を受く。そのとき天皇忠頼に対し、上筒男命、中筒男命、底部海津児神の三神を賜う。忠頼慎畏みて拝領し、同年石川郡武松に社殿を造営、神霊をここに奉祀しこれより富樫氏の守護神としたと伝えられている。
康平六年第七代家国が加賀の国府を野々市に移し、ここに社殿を造営、武松より遷宮し同時に忠頼の霊をも合祀して領内の総社とし護国神社と称した。
大正三年、照日八幡神社、外守八幡神社を合祀して、布市神社と改名した。祭神は天照大神、応神天皇、天児屋根命、上筒男命、中筒男命、底都海津児命、菅原道真、富樫忠頼の九柱である。
農事社跡
明治九年十二月、旧加賀藩士杉江秀直が創立し、近郷の篤農家を集めて田地の区画整理、農具の改良などを教導したところで、当地における洋式農業の発祥地である。
明治二十年、この農事社を石川郡模範農場と改名し、渡辺譲三郎を場長とした。
本県の耕地整理は全国最初であり、偉業を遺した高田久兵衛等もこの農事社で学んだのである。
富樫館跡
富樫氏歴代の居館としたところで、富樫城とも言い九艘川と新兵衛川を外濠とした区域である。
康平六年の頃第七代家国がここに館を創建し、加賀国府を移し布市を野々市に改めたと伝えられている。以来第二十四代政親が一向一揆により戦死した長享二年まで、約四百年間ゆるぎなき加賀の治世が行なわれた。
経塚
経塚はもとは経典を永く後世に伝えるため地中に埋めて塚にしたもので、その風習は平安時代末頃に始まった。この経塚は戦国~江戸時代に作られたものであり、町名の由来にもなっている。県内でも数少ない平野に立地する経塚であり、確認例が少ない北加賀地域における貴重な存在として重要視されている。
石造傅大子像
傅大子(ふだいし)は中国南北朝時代にあたる六世紀の僧で、お経を収める転輪蔵の創始者である。石仏は御経塚の経塚上に置かれていた祠の中にあり、経典を守るため祀られたものである。