ご指導くださったT先生から裏面一杯に書かれた年賀状が届いた。
それは「今年度末をもって大学を定年退職するが、最終講義や記念論文集の出版などは予定していない。40数年の研究生活であったが、依然として分からないことばかりで、日暮れで道遠し。大学を去るが研究は続ける。そして、定年を機に、今年をもって年賀状をお仕舞とする。長い間のお付き合いありがとう」という内容であった。
早速、長らくのご無沙汰をお詫びし、お会いしてご指導くださったことに感謝申し上げたい旨のE-mailを差し上げた。数日して、先生から退職にあたって手伝って欲しいことがあるので、是非会いたいと返信があった。
約束の日に、母校近くで待ち合わせ、先生がお困りの諸事を済ませ、自ら用意されていたイタリアンレストランで昼食を取ることになった。当時、先生とは演習でのやり取りはあったが、一対一でお話しする時間や機会はあまりなかったように思う。
食事を取りながら、先生の故郷のこと、大学を志望された動機、恩師の授業を受講して法律に興味を持ち研究者を目指すきっかけになったこと、最近取り組まれている研究テーマ、ご自身の健康面等々、話は多岐に及んだ。先生とは20数年振りの再会であったが、話は途切れることなく続き、あっという間に2時間が経ちレストランを後にした。
退職後も新たな研究課題に精力的に取り組もうとされる先生のお姿に心打たれ、私自身まだまだ努力が足りないと奮い立たされた。先生には、いつまでもお元気でご活躍されることをお祈りしたい。
(2025年2月1日 嶋田良夫記)
東京野々市会会員のみなさまへ。
あけましておめでとうございます。
谷裕介です。
この度、単独で写真展を開催することになりました。
お忙しいとは思いますが、ぜひ多くの方に見ていただけたら嬉しく思います。
本展示では、「今回の人生を生きる理由」をテーマとしております。
一昨年、友人との突然の別れに直面しました。
当たり前の毎日は、悲しみに覆われ、
いろのない世界が広がりました。
そんな時、遭遇したのが数羽のカラスたちです。
雨が降る中、傘を差して、彼らを見つめ続けていたとき、濡れ続ける羽は、紫や緑、青と光沢を帯びていく。その美しい黒を目にした時、僕は傘をさすのをやめました。
雨で濡れた身体が冷たくなったとき、
僕は生きていることを実感しました。
そして同時に、友人との約束を思い出しました。
「叶えたい夢が僕にはあることを」。
この体験は、自らを原点に立ち返らせ、
モデルとして、パリコレクションデビューをすることの大きな原動力となりました。
葛藤や希望の浮き沈みを、「カラス」の姿から、
表現したのが本展示となります。
ぜひ、みなさまとお会いできること、
心から楽しみにしております。
(2025年1月3日 谷裕介記)
今はありませんが 大手の介護サービス提供事業者のテレビコマーシャルでした。
2000年に介護保険制度が施行されて今年2025年は25年になります。あのコマーシャルは
ヘルパーの在宅派遣を的確に表していました。夜中に高齢の利用者のお家に静かにきれいなお姉さんがやってきてお下の世話を利用者のご家族が気づかないまま帰って行くというものでした。
そしてほとんどの方が 介護保険制度を知ることになり ちゃんと外で働きながら親の介護ができるんだと 納得できるものでした。
今はどうですか 介護保険制度ができてから 介護はお金。公的なサービスを利用すれば良いと言うのが一般的と成りました。また若者の就職先として介護保険サービス提供事業者は大きな役割を果たしています。 一方介護ヘルパーの給料は安い。事業者はブラックが目立つ。
また毎年6月に示される介護保険料は増加の一途たどり 少ない年金から天引きされて 不満がたまっています。 2000年の頃はなんと良い制度ができたんだろうと喜んでいたのに今はどうでしょうか。 今日はこれくらいにしておきますが よく考えてみましょう。
(2025年1月1日 魚住玄通記)
あけましておめでとうございます。 会員のみなさまにおかれましては、健やかに新年を迎えられたことと存じます。
昨年は年明け早々に、能登半島地震発生のニュースが飛び込んできて大変驚きました。
その後9月の豪雨水害が追い討ちをかけて、1年経っても未だ不自由な避難生活が続いていると思われますが、一日も早い復旧・復興を願っております。
昨年1年を振り返りますと、政権交代の厳しい風が世界の権力の回廊を吹き抜けました。
日本では「政治とカネ」の問題に端を発して衆院選で与党が過半数割れとなり、政治が不安定化し、米国では「米国第一」を連呼する次期大統領が選ばれ、国家や社会よりも「自分のこと」が優先される構図が定着するように思われます。
さて、東京野々市会は、昨年3月の能登半島地震復興支援イベント“石川県野々市市チャリティDay”、5月のアウトドア活動“六義園散策の会”、7月の定時総会、10月の“第15回いしかわ県人祭in東京”に、これまでにない多くの会員のみなさまに参加いただきました。
今年「創立35周年」を迎える東京野々市会は、更なる「野々市ファンの拡大」のため新規会員の拡大を図りたいと考えております。まずは、年初に予定しております「若手交流会(仮称)」の立上げによるネットワークの拡大、2月15日・16日に開催予定の“野々市市ふるさと交流会in東京”にご案内するみなさまへの新規入会依頼に併せて、当日会場で勧誘活動を展開したいと考えております。会員のみなさまにおかれましても、是非ご友人・お知り合いの方をお誘いあわせの上お足運びいただきたいと存じます。
年間行事は、上記イベントをはじめ、5月のアウトドア活動、7月5日の定時総会、10月の“第16回いしかわ県人祭in東京”を予定しておりますので、奮ってご参加いただきますようお願いいたします。
結びに、2025年が会員のみなさまにとって、躍動的で輝かしい年となりますよう祈念いたします。
(2025年1月1日 嶋田良夫記)
私が現在の長野県信濃町に引っ越したのは2019年5月です。最初は思ってもみなかった日本を東西に分ける分かれ目です。それに気づきました。きたしなの線は旧信越本線です。最寄りの駅は黒姫です。かつては柏原だったようです。2つ長野駅よりに牟礼(ムレ)という駅があります。2019年には 東京からと金沢?からの中間の駅と書いてありました.つまり国鉄では東日本と西日本の境目は牟礼だったのです。出身校の同窓会でも関東にはまぜてもらえませんでした。 ところが住んでみると 東京がはるかに近いのがわかりました。長野駅ー東京駅 新幹線かがやきで1時間18分です。以前住んでいた京都に行くには名古屋で特急しなので3時間2分名古屋から新幹線で京都まで33分です。金沢までは 長野まできたしなの線で30分、長野駅から金沢駅までかがやきで1時間6分です。 新幹線の上越妙高駅や飯山駅がありますが本数も少なくそこに行くのも大変なのです。ただ風光明媚です。 また関東には大宮駅 上野駅 東京駅という便利な最寄りの新幹線駅があるのです。
1番のネックは黒姫駅から長野駅までの30分です。めちゃくちゃ本数がすくないのです。バスもありません。乗り継ぎやら 本数もありますので やっぱり東京へ行くのが一番早くて便利なのです。信越本線時代の東日本 西日本の分け方は 新幹線ができて 全く崩れているのです。 もちろん信濃町も長野県もいいところです。あそびにきてください。
(2024年12月14日 魚住玄通記)
「人生100年時代」と言われて久しい。このワードを知ったのは、長寿化がもたらす働き方や生き方の変化を描いた著書、リンダ・グラットン『LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略』(2016.10.21)からであったように思う。その中では、2007年に生まれた子どもの半数以上が100年以上生きると予測。そして、今までの多くの方の人生は、教育で30年・仕事で40年・老後で20年の3ステージで区切られているのが基本であったが、これからは人間の寿命が伸びたことだけではなく、生き方や働き方に大きな変化が出てきたという。
同書発行に呼応したかのように、翌年の2017年12月、厚生労働省の「人生100年時代構想会議」では、人生100年時代について以下の中間報告がなされている。
・ある海外の研究では、2007年に日本で生まれた子供の半数が107歳より長く生きると推計されており、日本は健康寿命が世界一の長寿社会を迎えています。 ・100年という長い期間をより充実したものにするためには、幼児教育から小・中・高等教育、大学教育、更には社会人の学び直しに至るまで、生涯にわたる学習が重要です。 ・人生100年時代に、高齢者から若者まで、全ての国民に活躍の場があり、全ての人が元気に活躍し続けられる社会、安心して暮らすことのできる社会をつくることが重要な課題となっています。 |
日本の平均寿命をみると、終戦直後50歳台であったが、医療の進歩に伴い年々延びて2023年には男性81.09歳、女性87.14歳(厚労省「令和5年簡易生命表の概況」)という、世界有数の長寿国となった。一方、健康寿命は、平均寿命に対しそれぞれ約9年、約12年の差があり(2019年度データ)、健やかで心豊かに生活できる活力ある社会を実現するには平均寿命により近づけることが望まれる。
10月に母校でOB祭が開催され、その中のイベント企画で、現場の最前線にいる医師、著名人、弁護士などで、健康と医療、そして、最近注目されている、社会的にも満たされている状態のウェルビーイングをテーマに座談会が行われた。健康に関心のある俳優からは、毎日5キロのジョギングをしている、着色された物や保存期間の長い物は食べない、医師からは、食べて(かたいものをよく咀嚼)歩き(毎日5キロのジョギング)、6~7時間程度の十分な睡眠をとる、また弁護士からは外に出て社会との繋がりを持つことなど、ウェルビーイングにかかる意見交換がなされた。
以上、専門家の意見を聞き、「人生100年時代」に向けて、どのように生きて行くべきか改めて考えるよい機会となった。
(2024年12月2日 嶋田良夫記)
10月25日(金曜日)、“第15回いしかわ県人祭in東京”がホテル椿山荘東京(東京・文京区)にて開催され、首都圏で活躍される840名の石川県人や県ゆかりの方々が一堂に会した。1月1日に発生した能登半島地震、9月の奥能登豪雨と度重なる被害発生の状況下、県人祭実行委員会で県人祭の開催可否について協議が行われた結果、「首都圏から能登を応援しよう!」と開催が決定された。
当日の午後早く、各ふるさと会の面々が会場に集合し、参加されるみなさんへの手土産の袋詰め準備に入った。例年のことながら、このような作業が各ふるさと会相互の絆を深め、かつ交流の場にもなっている。
午後3時、会場入口近くに石川県各地の物産市のブースが設けられ、それぞれ準備に入った。私たち東京野々市会も応援し、野々市市のご担当とともに“猩々”“猩々秋あがり”“梅猩々”などの地酒やお菓子等の特産品をテーブルに並べた。同じように、他の地区の物産市でも当該ふるさと会が応援する姿がみられた。
午後4時、「いしかわ物産市」がオープンし、午後4時半に開催されるお茶会に参加する方々が立ち寄り、その後午後6時半からの宴会に合わせた来場者で賑わった。野々市市のブースでは、最初は心配したものの、並べられた特産品が一つひとつと順調に売れ始め、終宴後には数本のお酒を残すだけで、ほぼ完売!
午後6時30分、宴会場の「グランドホール椿」には、ふるさと会や同窓会、官公庁、企業の円卓に参加者が着席し、「七尾・香島津太鼓」のオープニング演奏で開宴となった。津幡町出身の大関・大の里関のビデオメッセージ、前田家19代当主・前田利宜さんのトークショー、来賓・首長の紹介と続き、乾杯となった。
私たち東京野々市会のテーブルには例年になく8名と大勢の会員が集い、笑み溢れる粟市長を囲んで記念の一枚。テーブルに一人ひとりに提供された、能登をはじめ地元食材を使った和洋食と地酒を味わいながら歓談した。終宴近くにお楽しみ抽選会が行われ、各テーブルから歓声があがったが、今年も野々市会全員がハズレであった。
今回は予期せぬ能登被災下での県人祭であったが、来年開催の頃には復旧・復興が一段と進んでいることを望んでいる。
(2024年11月5日 嶋田良夫記)
昨年5月5日、世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルスについて「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」の終了を発表し1年5カ月が経過して、今では話題にもならず、メディアが取り上げることもなくなった。しかし、コロナウイルスは根絶することなく、9月23日~29日の「定点把握」データによると1医療機関あたり全国平均3.58人の感染者が発生している(NHKニュース・防災)ことを忘れてはならない。
新型コロナウイルス感染症対策分科会会長を務めた尾身茂氏は、人々の交流、たくさんの家畜の飼育、地球温暖化などを考慮すれば感染症のパンデミックは必ず起きる、と話す(2024.9.25配信Yahoo!ニュースオリジナルRED Chair)。また、東京慈恵会医科大学 浦島充佳教授は、新型コロナに続く次なるパンデミックを引き起こす感染症として「ニパウイルス」が進化した「新型ニパウイルス」をあげる。ニパウイルスは新型コロナウイルスと同じRNAウイルスを病原体とし、感染すると発熱や頭痛、脳炎などの症状が出るという(2024.9.12日経新聞朝刊21面)。
3年余りに及んだコロナ禍は、発生当初は手探りで右往左往したが、私たちにいろいろなことを考える時間と機会を与えてくれ、変化をもたらした。例えば、デジタル化、働き方改革、サプライチェーンの再編、中小企業の事業継承の加速など、社会、産業における構造改革は一挙に進展した。また、行動制限は社会や人々に行動原理や価値観の変化を促し、人とのかかわり方が明確になったように思われる。
10月から高齢者向けに新型コロナワクチン予防接種が始まるのを機会にコロナ禍を振り返った。喉元過ぎれば熱さを忘れることなく、これからもウイルスに対して「正しく恐れる」行動をとり、早めに接種を受けることにしよう。
(2024年10月8日 嶋田良夫記)
2022年3月、野々市生まれの純米酒“猩々”の復刻後、 “猩々秋あがり” “猩々おりがらみ”に続き、今年6月に猩々仕込み梅酒“梅猩々”が限定発売となった。
猛暑の中、いただいた“梅猩々”に氷を入れ一口、喉越しのほのかな香りに涼を感じた。
この夏、帰省の折60数年振りに、昭和50年頃まで“猩々”等の酒造りをしていた、喜多家住宅を訪ねた。入口からトオリニワに入り、吹き抜きのあるオエに上がり、ナカノマ、イマ、ブツマを抜けザシキへと進み、ミズヤにある手すりのない狭い階段から2階に上って、当時の商家の生活を垣間見ることができた。
喜多家住宅案内のパンフレット(野々市市教育委員会発行)に「喜多家は、元は福井藩の武士でしたが、貞享3(1686)年、藩を離れてこの野々市に移り住みました。その後、菜種油を売る商人となり、明治時代からは酒造りを営むこととなりました」と記載があるが、なぜ福井藩の武士が野々市に移住し、菜種油売りを営み、その後酒造りに転業したのだろうか。
福井藩について調べて見ると、貞享3(1686)年閏3月、福井藩7代藩主松平綱昌は将軍綱吉によって領地47万5,282石を没収され(「貞享の半知」と知られる)、この奇禍を理由に家臣団の人員削減が断行された(福井県『福井県史 通史編4 近世二』平成8年3月31日)ことが分かった。
また、江戸時代中頃には、野々市を含む石川郡は土質と水はけがよいため菜種作りに適していため、灯りをともす貴重な油を作る油屋が多くみられた。その後幕末頃には油屋経営が難しくなって、他の業種に転換している例がみられた(野々市市HP・野々市デジタル資料館)ので、喜多家もその一つであったのであろう。
帰り際、玄関のお酒の受け渡しの狭い窓口をみて、小学校低学年の年末に徳利を持って正月用のお酒を買いに来たことを思い出した。外に出ると激しく車が行き来していたが、その頃は車の通りも少なく長閑であったように思う。
(2024年9月10日 嶋田良夫記)
7月13日(土曜日)開催の“第36回東京野々市会総会”後の情報交換会にて、粟市長から「市民のリスキリングによるサステナブルスキル育成を促すオープンバッジ制度(市民の一人ひとりのSDGsに関するスキルや経験を見える化する)」を導入することで、市内での取り組みを推進しながら市民一人ひとりの持続可能な社会の実現に対する意識を向上させ、若者を中心とした市民が一体となってまちづくりを行う社会の実現を目指すよう取り組んでいる、と紹介され、東京野々市会からも参考となる発想やアイディアを期待している旨のお話しがありました。
東京野々市会は、野々市市が取り組んでいる魅力的なまちづくりを応援するためにも、今後さらなる会員数の拡大を図り、これまでの30年の活動を一区切りとして、さらに50年、100年・・・と活動を続けて行きたいと考えています。
そこで会員数の推移を見てみますと、1990(平成2)年2月の設立総会時の会員数は64名であり、その後時を経て2024年3月末現在の会員数は40名となっています。途中経過は省略するとして、2019年3月からの5年間で12名の入会者がありましたが、高齢化等により15名が退会となりました(年会費未納に伴う10名の退会は除く)。これまで、情報発信の強化や各方面とのネットワーク構築により会員数の拡大(以下参考資料)に努めておりますが、会員数拡大には会員のみなさまによる新規会員の勧誘が一番の近道と考えています。
以上を踏まえて、会員のみなさまからの、お知り合い・ご友人へ入会のお声掛けを今一度よろしくお願いいたします。
(参考資料)
1.会員数の推移
|
会員数 (内会費未納者数) |
入会者数 |
退会者数 |
入退会理由 |
|
入会 |
退会 |
||||
設立時(1990年) |
64(-) |
|
|
|
|
2019年3月 |
54(10) |
1 |
|
ののいち里まち倶楽部紹介 |
|
2020年3月 |
53(10) |
1 |
2 |
会員紹介 |
死亡 |
2021年3月 |
43(0) |
|
10 |
|
会費未納者退会(規約改定) |
2022年3月 |
44(0) |
5 |
4 |
野々市市ふるさと交流会in東京参会者へ勧誘文書発送 |
死亡ほか理由不明 |
2023年3月 |
42(0) |
|
2 |
|
高齢 |
2024年3月 |
40(1) |
5 |
7 |
HP閲覧、会員紹介 |
高齢ほか参加不可 |
入退会者数計 |
|
12 |
※ 25 |
|
|
※退会者数24名のうち会費未納者10名が含まれるので、実質の退会者は15名(規約改定により会員資格を年会費納入者とする旨明確化。未納者に対し意思確認後、退会扱いとしている。)
2.会員数拡大策
(1)情報発信の強化
・HPの刷新(野々市市HPの中で、誰でも目に付きやすいように構成し内容も刷新。常にアップデイト)
・Instagramの立上げ(若手の閲覧を期待)
・「広報野々市」への募集記事掲載(年2回)、石川県人会会報「石川縣人」および「加能人」へ紹介記事掲載、報道機関へのアプローチ(北國新聞へ記事掲載)、石川県学生寮OB会メルマガによる勧誘
・創立30周年記念の集い開催
(2)ネットワークの構築
・金沢工業大学OB会(関東こぶし会)との連携構築、石川県立大学へのアプローチ検討
・若手会員の役員登用
・若手交流会の立上げ(会員友人等のネットワーク拡大)・・・今後取組み予定
・当会事務局(野々市市市民協働課)との十分なる連携
・野々市市主催のイベント等への積極的応援・参加
・会員による勧誘活動展開・・・友人・お知り合いへのお声掛けをお願いします。
(2024年8月10日 嶋田良夫記)
6月21日、昨年に比べ約2週間遅く関東甲信が梅雨入りした。暫くうっとうしい日が続くと思うと気が滅入る。
雨の日は、出来るだけ外出を避けることにしているが、どうしても出かけなければならないときは、濡れないようにレインコートを着て、大振りの傘を差し、防水のシューズを履くことにしている。
先日、ある雑誌の巻頭にイギリスの傘のことが書かれていた。イギリスの傘は日本の傘のように平べったい屋根でなく、逆さにしたお椀のように丸い屋根になっていて、傘を差して歩くと「ポンポン」と心地よい音がするようである(『THE NIKKEI MAGAZINE』9 June 2024 7頁)。とかく雨をうっとうしく感じるが、イギリスでは雨を楽しもうとしているのであろうか。
WEBで調べて見ると、ロンドンの老舗傘ブランド「フォックス・アンブレラ」は、創業当時から手作業で熟練職人が一本一本丁寧に作り、開いた時はこんもりとし、閉じた時のスリムなフォルムが美しく、雨に日の紳士淑女をエレガントに見せるそうである。一般的な傘と比べて生地が高いテンションで貼られているので、雨が当たった瞬間に雨が歌っているような唯一無二のサウンドを生み出し、雨の日が楽しくなるようである。
しかし、ロンドンの降水量は東京の4分の1程度であり、シトシト降る雨で、傘が必要ない程度であると思われるが、このような趣のある傘はステッキ代わりなのか、ファッションなのか?
首都圏とロンドンを行き来している友人に「こんもり傘」のことを聞いてみたが、よく分からない。ロンドンでは、小糠雨(こぬかあめ)と本降りが半々くらいで、お天気の推移が予測しにくいため、一応傘は持ち歩くが、小糠雨程度では傘を差さないようである。よい機会であるので、友人には今度彼の地に行った時にイギリスの「こんもり傘」のことについて見聞してもらうことにした。
今度、雨の日に、「フォックス・アンブレラ」ではないが、傘に落ちる雨音を聴いてみよう。
(2024年7月1日 嶋田良夫記)
5月18日(土曜日)、快晴で真夏のようなお天気。午前11時、“六義園散策の会”に参加予定8名のうち6名がJR山手線 駒込駅南口に集合した。
駒込駅から本郷通りを歩くこと7分、正門に到着。内庭大門(庭園の中心に入るための門)を通り抜けると、既に葉桜となったしだれ桜が迎えてくれた。サクラの開花時は混みあうので、この時期の開催となったが、ツツジも既に咲き終わっていた。五代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が1702(元禄15)年に築園した、和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」大名庭園を、大泉水に沿って時計周りに小一時間散策。サクラやツツジの花の季節が終わったものの、清々しい空気を吸って心地よい汗をかき新緑を満喫した。途中、吹上茶屋で休憩し抹茶と和菓子を楽しむ予定であったが、会食の予定時間が迫っていたため駒込駅近くの鮮魚店へと急いだ。
鮮魚店では、途中参加の2名も揃い、よく冷えたビールで乾杯! お酒が進み、東京野々市会はどうあるべきか、野々市をどのように応援すべきか、また「野々市ファンの拡大」のためにどうすべきか、と議論が白熱した。議論の流れは、野々市ファンを増やし、会を続けていくことが大事であるとの結論に至った。ふるさと野々市を応援しようという思いから、2時間に亘る忌憚のない意見交換となった。
(2024年6月1日 嶋田良夫記)
先月、帰省の折に野々市市郷土資料館”N o N o”を訪ねた。同館は本町四丁目(本町通り)にあった「旧魚住家住宅」(1973年まで青果、雑貨店として営業。屋号“ようや”)が、1975(昭和50)年に白山町に移築され、老人の集いの家「椿荘」、その後1982(昭和57)年に郷土資料館として活用され、1994(平成6)年に現在の本町三丁目に移築された。昨年4月に「人の流れの復活」を目指す拠点として民間事業者に管理委託されたことは以前のコラムで紹介した。
民間に管理委託されて1年が経つので、どのように変わったのか、と思い訪れた。入口を入ったところの広間“ミセノマ”には、以前からのカフェに加え市民や来館者がお酒を飲み、蕎麦を愉しむことができるようにテーブルが並べられていた。
“トオリニワ”を抜け2階に上がると、展示室には野々市市本町出身の木彫家 瀬戸栄子さんの作品展が開かれていた(1936年生まれの瀬戸さんは現在もお元気で活動されている)。また、会場には瀬戸さんの生家である履物商の関係資料も併設展示されていた。
館内を一巡してから、1階ミセノマの“のの蕎麦CAFE”で地酒を傾け蕎麦をいただくつもりであったが、食事の注文は午後3時30分で終了ということで、一巡する前にお願いしておいた。地酒のセットにはフキノトウ味噌が添えられた豆腐がついており、春を感じながら地酒の吟醸酒で一杯。後に出てくる山菜蕎麦セット(小ぶりの軽く焼いたおにぎり付)で少し遅い昼食を取り、暫し木虫籠(キムシコ=格子)を通して人の流れを眺め、ゆったりと午後の一時を過ごした。
民間に管理委託後、PR不足でまだ来館者が少ないようであるが、従来の「資料展示の場」に加え「人が集う交流の場」として一層にぎわうことを期待したい。
資料館の向かいには駐車場も用意されているので、会員のみなさまも帰省の折には一度立ち寄られてみては如何でしょうか。地酒も蕎麦もいい味でした。
(2024年5月7日 嶋田良夫記)
4月16日(火曜日)、母校主催の“狂言の夕べ”を鑑賞した。今回の公演は“末広かり”と“六地蔵”の演目であったが、野村万作、萬斎、裕基の親子三代で演じられた“末広かり”からは室町時代から引き継がれた伝統芸能の凄さを感じた。
野村万作さんは人間国宝で昨年文化勲章を受章されたが、92歳になる自身が79歳で亡くなった父・万蔵の芸の域に達していないと言われる。今もなおカクシャクとして日々研鑽されている姿に感銘を受けた。
万作さんは公演に入る前の挨拶の中で、狂言は、一に「美しさ」、二に「面白さ」、三に「おかしさ」の順で、その中でも第一に大切なものは「美しさ」であり、美しい風姿や声が土台にあると話された。狂言の道の奥深さが感じられた。
今回の演目の一つである野村三代で演じられた狂言“末広かり”(すえひろがり)は、果報者が来客に末広かり(扇)を贈ろうと、太郎冠者に命じて都へ買いに行かせる。ところが末広かりが何のことか知らない太郎冠者は、声を掛けてきた男の巧みな言葉に、古傘を末広かりと信じ込んでしまう。大喜びで古傘を買い求めた太郎冠者は早速屋敷に持ち帰ると、果報者に見せるのだが、これは何だといわれる。果報者が勿体付けて「扇」と言わず「末広かり」と言ったのがミソであるが、野村三代の演技から狂言の「美しさ」「面白さ」「おかしさ」を十分堪能することができた。
(2024年5月7日 嶋田良夫記)
3月は2月に比べ気温が低く、待ちに待ったサクラが漸く咲き始めました。
さて、昨年の“小石川植物園自然観察会”に続き、今年もアウトドア活動として以下のとおり“六義園散策の会”を実施する予定です。是非ご参加ください。
六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられ、1695(元禄8)年、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳澤吉保自らが設計、指揮し、「回遊式築山泉水庭園」として造られました(六義園HPより抜粋)。
同園は都内の近場にありいつでも行けると思っていましたが、昨年初めて母校OB会ウォーキングサークルで行ってきました。正門を入り暫く歩くと見事な庭園が一望でき、園内吹上茶屋でのお茶と練りきりはなかなか美味しくオツなものでした。
<六義園散策の会概要>
〇日 程:2024年5月18日(土曜日)午前11時
〇集合場所:JR山手線 駒込駅南口
〇そ の 他:1時間程度 散策後、近くの鮮魚店で昼食をとりながら情報交換。
~追って、事務局から詳細ご案内いたします~
(2024年4月1日 嶋田良夫記)
会員コラムは、令和元年度から掲載しています。過去のコラムも、ぜひご覧ください。